東京都平和の日

2021.3.10

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3月10日は「東京都平和の日」

本日、都庁にて第31回東京都平和の日記念式典』が開催されました。

14時、黙とうを捧げ、東京空襲の犠牲となった方々を追悼すると共に、戦争の惨禍を繰り返さないことを誓いました。

1945年3月10日深夜0時8分、東京でアメリカ軍B29爆撃機344機による焼夷弾爆がありました。米軍での作戦名は「ミーティングハウス2号作戦」

軍需工場と一般住宅を区別せずに空襲した「無差別爆撃」です。

延焼効果の高い風の強い日を狙い決行。

すでに日々の本土空襲が続いていたところ、悲惨にも10万人以上の方が亡くなったといわれています。密集した木造住宅をねらって、火災を起こす目的で作られた焼夷弾(ナパーム弾)が落とされ、大火災となりました。

江戸川区では、小松川・平井地区がほぼ焼失し800人を超える方々が亡くなり、負傷者約5,800名、全焼家屋約11,000戸、罹災者は約40,000名(『東京都戦災誌』)にのぼりました。

中川新橋から約100m上流付近での死者が最も多く、「中川新橋の下は死体で川の水が見えなかった」(職員の座談会『昔の江戸川区』)といいます。(区及び総務省のページから)。

不条理なことに命を失うことになってしまった方々の無念を思い、ご冥福を祈らずにはいられません。

令和3年1月に亡くなられた歴史探偵。半藤一利さん。

「日本の一番長い日」「ノモンハンの夏」「昭和史」など日本の近現代史、特に昭和の戦争に関する史実に基づく多くの著作があります。

半藤さんは14歳のときにこの3月10日の東京大空襲に遭遇ました。

先日半藤さんのご逝去を悼む番組が放映されました。過去の対談で、その時のことを語っています。焼け出されて中川まで逃げていったそうです。中川で溺れている人を助けようとして逆に川にまきこまれ、溺死寸前に船の人に助けられたそうです。

逃げる途中に、はおっていた「綿入れ」の背中に火がついたと。凍える寒さと火災と恐怖。

そのような体験が、半藤さんの昭和の戦争の真実を掘り起こす原動力になったのかもしれません。焦土になった郷土を見て、半藤さんは思ったそうです。

 あのとき わたくしは 焼け跡にぽつんと立ちながら

 この世に「絶対」はない ということを思い知らされました

 絶対に正義は勝つ  絶対に神風が吹く

 絶対に日本は負けない  絶対に自分は人を殺さない

 絶対に…  絶対に…

 その時以来 わたくしは2度と「絶対」という言葉はつかわない 

 そう心にちかって今日まで生きてきました

 しかし いま あえて「絶対」という言葉をつかって

 どうしても伝えたい たったひとつの思いがあります

『戦争だけは 絶対に はじめてはいけない』

享年90歳  半藤さんのご冥福をお祈りいたします。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/N9YRQRV86Z/

NHK ETV特集「一所懸命に漕(こ)いできた〜“歴史探偵”半藤一利の遺言〜」